遠藤事件

江戸時代の宝暦四年(1754)、吉備津神社の神宮寺は福山藩の寺社手代・遠藤忠平と癒着して神社の諸事を専断し、抗議した神職はことごとく禁獄、追放し、ついには神職に黒衣(僧衣)を着ることを強要した。
その後、それまで大いに賑わっていた吉備津宮の例祭はめっきり廃れてしまい、人々は神慮穏やかでない故であろうと言った。
さらに宝暦八年、神池の辺りの家から出火して火事になった際、急を告げる神社の鐘を鳴らしたもののどういうわけかまったく周囲に響かず、
近村より誰も消火に駆けつけてこなかったので、ついに大火となって鳥居より南の人家がことごとく焼失、人々は明神の怒りであると噂した。
のち、この事は遠藤忠平が上をごまかし下を脅して行ったものであると発覚、
その子孫である二つの家はともに不慮のことで断絶したといい、
またあるいは童形の大男がそこかしこに出現してその家の罪を言い触らし、その間、殿中の木像一体が数日の間見えなくなったという。