以下公式サイトより引用

 

御創建は平城天皇の御代、大同元(806)年3月、備中中山吉備津神社より分祀されたと伝えられ、古い記録を見ると
「備後国吉備津宮八講之縁起(びんごこくきびつみやはっこうのえんぎ)」には、長和3(1014)年法華八講ほっけはっこうが始められたとされています。また、京都祇園社(八坂神社)の「社家條々記録(しゃけじょうじょうきろく)」には、久安4(1148)年、法華八講会ほっけはっこうえの御八講料所として当社が宛てられたことが記されています。
 鎌倉時代に入り、「百錬抄(ひゃくれんしょう)」には、寛喜元(1229)年11月27日、備後国吉備津宮焼失とあり、その後、再建ののち、時宗を開いた一遍上人が弘安10(1287)年、当社を参詣し、その様子は国宝「一遍上人絵伝(一遍聖絵)」(鎌倉・清浄光寺蔵)に描かれています。そして、永仁5(1298)年、京都六波羅より神領壱万六千貫を受け、当時の繁栄ぶりがうかがわれます。
 南北朝の争乱期、「太平記」には、元弘元(1331)年9月、桜山茲俊(さくらやまこれとし)公が楠木正成公と東西相呼応し、ここ一宮で倒幕の兵を挙げたことがでてきます。楠木公の赤坂城落城の誤報を受け、もはやこれまでと、元弘2年正月21日、妻子一族郎党と共に自刃され、兵火は一宮まで及んだと伝えられています。「吉備津宮勘合略記(きびつみやかんごうりゃっき)」には、永和2(1376)年、小野宮左近将監により本殿が再建され、この時、三宮を正宮一宮とし、南北の二宮は正宮に合祀したことが記されています。

 

以上が公式サイトに記載されている内容ですが、905年から967年にかけて編纂された『延喜式神名帳』に記載がないことから、創立期の内容に疑いを持つ研究者も多く、常城と並び地元研究家の重要研究課題となっています。

ここでは、様々な研究者の論をまとめてみます。