備後一宮吉備津の宮吉備津神社創建についてWIKIpedeliaなどで以下のように書かれています。

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吉備国が三国に分離された後の806年、吉備国一宮であった吉備津神社より勧請して創建されたと伝えられる。

しかし、その約百年後の905年から967年にかけて編纂された『延喜式神名帳』に記載がないことから、実際の創建はもっと後であるとする説がある。

現在、神社の名前が最初に確認できる史料は1148年の八坂神社の記録『社家条々記録』であり、境内の発掘調査でも12世紀以降のものしか出土していない。

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この見解は江戸時代の地誌・福山志料(1809・江戸後期)の、 「今按ずるに、はじめ吉備の中山にのみ鎮座ありしを(備中・吉備津神社)、三国に分かれし時、各国にわかち祭りし由伝われとも、延喜式に備中のみ見えて前後の国はのせず。国内最大の社にて其の数に洩れしをみれば、延喜以降にわかれ玉ひしなるべし」
とあり、10世紀以降の創建とみているものを引用しているに過ぎなません。

 

しかし福山志料では、かつての鎮座地が芦田郡土生村用土であることが出ており、

延喜式編纂の頃は、備前、備後は備中・吉備津神社(旧吉備国の総鎮守)の分社と理解されていたとすれば、式内社に列しないのは当然と言えるでしょう。

 

以上を考えると芦田郡土生村の地に、9世紀に分社として創建され、11世紀から12世紀の頃に新市町宮内の地に遷座され、備後一宮として正式に社格を得たのではないでしょうか。