江戸時代になると、福山藩が今の福山市、府中市、井原市、笠岡市、神石高原町の一部をもって設置され、水野勝成が名目高10万石をもって入封しました。

初代福山藩主、水野勝成により現在に残る本殿、拝殿、神楽殿などが、それまでの規模にならい、造営され現在も健在です。

本殿が『国重要文化財』拝殿『市指定文化財』神楽殿『県指定文化財』などに指定されています。

 

江戸時代も中期に差し掛かると、お宮参りが流行し吉備津神社にも多くの人が参内に訪れるようになります。

観光地として最も「備後一宮 吉備津神社」が賑わいを見せている時代です。

しかしながら、賑わいも長く続かず、1754年に遠藤事件という、福山藩の寺社手代・遠藤忠平と癒着して神社の諸事を専断するといいたスキャンダルが起こってしまいます。

 

江戸時代も末期になると御池の埋め立ても進み、基本的な配置も現在に近いかたちになっていたようです。

すでに三重塔もなく御池に浮かぶ島も、今の厳島神社がある島を残すのみになっています。

 

江戸時代後期には「備後一宮 吉備津神社」でも版画が多く摺られ、現代の観光パンフレ ッ トのような役割を来たしていました。 

「備後国一宮社の図」は、江戸時代の吉備津神社境内の景観を木版で器摘りした一枚物 の版画です。