吉備津神社の神人(社家)一族である宮氏、中世においては宮氏の歴史が吉備津神社の歴史と密接になっています。

この宮氏の勢力拡大が、総本宮を凌ぐ現在の吉備津神社の広大な神域と深くかかわっていると言われています。

 

中世の備後一宮 吉備津神社と言えば、まず思い浮かぶのが南北朝時代に活躍した南朝方の英雄、忠臣「桜山 茲俊」です。

桜山氏も宮一族であり、吉備津神社と、そのすぐ南にあった桜山城を本拠地としていました。

桜山茲俊が活躍した吉備津神社と桜山城一帯は『国の史跡』として指定されています。

 

「神社の南側丘陵上に築城し、700余名の兵とともに立てこもり、

一時は備後のみならず備中、安芸へも進出しようとする勢いであったが、笠置落城、後醍醐天皇捕縛の風聞を聞くに及んで軍勢は離散、翌32年、一族20名とともに吉備津神社に参り、妻子を刺殺、社殿に火をかけ自刃した。」

とあり、当初は桜山城に桜山神社が祭られていました。

 

その後、『備後古城記』などに拠れば、福山市新市町と府中市の境に当たる亀寿山の城主、宮氏の総領家である「上野介家」の宮兼信の力が増し、1363年足利尊氏に味方し備後宮内で足利直冬の軍勢を撃退したことが載せられています。

この功で尊氏より備中国の守護職を拝領し、1365年まで務めています。

余りに勢力が強く、足利尊氏の側近の高師直の弟で備後国守護の高師泰との関係が問題化した時期もあります。

 

宮「上野介家」の取り立ては、備前、備中、備後の吉備津彦 社家のうち、飛びぬけた武力を持つ「上野介家」を取り立てることで、吉備津神社にかかわる勢力を幕府の支配下に置く狙いがあったものと思われます。

 

兼信の子息の氏信は上野介に任官して室町幕府に仕えました。

以後、その子孫は「宮上野介家」として戦国時代に至るまで備中、備後国で大きな勢力を持つようになりました。

 

備後吉備津宮境内古図
備後吉備津宮境内古図