備後一宮 吉備津神社で最も規模の大きい摂末社になります。

南北朝時代に楠木正成とともに南朝方に味方し、瞬く間に備後国南部を勢力下においた桜山 茲俊他親族12柱を祀ってあります。

社務所にて桜山神社の御朱印が頂けます。

 

拝殿、幣殿、狛犬、神門、手水、玉垣などの設備をもった、かなり立派な末社です。

東京などでは、この末社だけで広い神社の部類に入るくらいです。

 

去程に桜山四郎入道は、備後国半国計り打従へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残ける。(中略)人手に罹りて屍を曝さんよりはとて、当国の一宮に参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人、皆灰燼と成て失にけり…」

元々桜山神社は、吉備津神社の境内地に、小祠としてお祀りされていたと言われています。

その後、社は朽ち無残な状況になっていたそうですが、明治になり政府により桜山城跡に再建され、さらに1911年に拝殿、幣殿を持つ権現造りの立派な社として吉備津神社の神宮寺跡に移築されました。